日蓮宗宮崎鹿児島沖縄三県教化センター

主な年中行事のご紹介です。
年中行事は各寺により異なります。詳しくは各寺にお問い合せ下さい。


1月 ●新年祝祷会【1月1日】
元旦に新しい年のはじめを祝い、天下泰平・国土安穏・五穀豊穣・寺門興隆・檀信徒の家内安全などを祈る。ふつう初詣でを兼ね、除夜の鐘のあと、寺に檀信徒が参集し、住職の導師によって、一年の最初の法要をつとめる。法要のあとは、一同で屠蘇を酌みかわし、年賀のあいさつを行い、新しい年の門出を祝う。

2月 ●節分星祭り
節分とは立春の前日で、もとは立春、立夏、立秋、立冬の前日を指し、1年に4回あったが、現在では大寒の終る日、立春の前日だけを呼ぶようになった。
節変り、年越し、年取りなどともいわれ、新しい季節を迎えるに際し、災厄や邪気を祓う行事が行われる。
寺では、法華経読誦による節分の祝祷会を行い、檀信徒各人の年中安泰を祈る「星祭」のお礼・お守りを授与する寺もある。
●釈尊涅槃会(しゃくそんねはんえ)【2月15日】
釈尊がクシナガラで80年の生涯を終え、入減を示された日をしのび修する法会で、常楽会、仏忌ともいう。
涅槃とは吹き消すこと、または吹き消した状態をいうニルバーナの訳で煩悩の火を焼きつくして迷いのなくなった境地をさす言葉である。
この法令に当っては、「釈迦涅槃図」を本堂に掲げて供養し、永遠に生きて人々を救おうとされる釈尊の教えを受持することを誓うことが肝要である。
●宗祖降誕会(しゅうそごうたんえ)【2月16日】
日蓮聖人が貞應元年(1222年)のこの日にご誕生されたのをお祝いする日で、釈尊涅槃会の翌日が宗祖降誕会であることは、釈尊の本当の教えを末法の世に受けつがれたのが聖人であることを示しているような不思議な符合である。聖人のご生涯に学び、聖人のご精神をうけつぐ誓いを新たにする日である。

3月 ●春季彼岸会
太陽が真東から出て、真西に沈み、暑からず寒からず、昼と夜の長さが同じである春分と秋分の日を中心に7日間を「お彼岸」と呼び、迷いの此岸から、悟りの彼岸に渡る修行の週間である。仏道にはげみ、先祖供養をする日で、寺参りや墓参りするのが一般である。各寺院では中日を中心に彼岸法要を営み、読経、法話が行われたり、各家の仏壇にお経まわりをする地方もある。

4月 ●釈尊降誕会【4月8日】
釈尊の誕生をお祝いする日で各寺院でその降誕を祝して行う法要。灌仏会、仏生会、浴仏会、龍華会などとも呼ばれる。都会では4月8日、又は4月に入って8日前後の日曜日に、地方によっては5月8日に行ったり、境内の桜の満開近い日を選んで行うところもある。
一般に行われている花まつり、灌仏会は花御堂といって、この頃咲いているいろいろな花を飾りつけた小堂をつくり、この中に小誕生仏(木、銅)を浴仏盆と呼ぶ水盤の上に安置して、その頭上から竹のひしゃくで甘茶を注ぐ。これは、生まれたばかりの釈尊の体に龍が清浄の水を吐き注いで産湯としたという伝えに基づいている。参拝した人はこの甘茶を竹筒やビンに入れて持ち帰り、家族でこれを分けて飲む。甘茶を飲むと病気をしないとも伝われている。昔はこの甘茶で墨をすり、
昔より 卯月八日は 吉日よ
神さけ虫を 成敗ぞする
と書き、紙を逆さまにして貼っておくと、虫除けになったという。
この行事は仏教を信仰する国々で盛んに行われている。韓国では万灯をかかげてこの日を祝い、東南アジアでは5月中旬の満月の日を選んで盛大な祝典をする。
●立教開宗会【4月28日】
日蓮聖人が建長5年(1253年)32歳の時、清澄山の旭々森に立ち、昇る太陽に向って日本国の一切衆生を救済せんとの大慈悲心をもって「南無妙法蓮華経」と声高らかに唱えられ、法華経の行者として宣言された日で、不惜身命の弘通ほ生活が始められたのである。
われわれ門下は、聖人の信仰に従って、教えを弘めて行こうと誓う日である。

5月 ●伊豆法難会(いずほうなんえ)【5月12日】
弘長元年(1261年)のこの日、執権北條長時とその父重時は、諸人の讒言を信じて、聖人をにくみ、聖人を捕えて由比ヶ浜から伊豆の伊東に流罪とした。爼岩に置き去りにされた聖人の危難を船守弥三郎がお助けした。
お岩屋で月余の御生活。領主伊東八郎左エ門朝高の大病を法華経によって祈願して平癒させ、伊東の海中から出現した釈尊の立像を贈られ、聖人はこれを生涯の随身仏とされた。弘長3年2月21日、42歳の厄年に赦免となり、鎌倉に戻られた。
この法難は聖人にとり、公権力による迫害の最初であり、まさに画期的な出来事であった。

7〜8月 ●盂蘭盆会(うらぼんえ)お施餓鬼(せがき)
釈尊の弟子の目蓮尊者が餓鬼道に落ちて苦しむ母を供養したことから始まる行事で、先祖供養の日である。聖人の盂蘭盆御書では、法華経によって七世の父母を供養することの功徳の大きさを説かれている。
地域により期日と行事に多少の違いはあるが、一般に7月(又は8月)13〜15日を中心に、寺から檀信徒の家へ棚経に廻って回向し、家々では精霊棚をかざり、お墓参りをし、迎え火、送り火をたいて先祖の霊をお迎えし、お送りする。寺では施餓鬼法要が営まれる。
●松葉ヶ谷法難会(まつばがやつほうなんえ)【8月27日】
文應元年(1260年)7月16日、聖人は立正安国論を北條時頼に献上し、幕末を諫暁された。しかし、時頼はこれを黙殺した。この書の内容がいつの間にか漏れ、鎌倉市中の念仏者の怒りをかい、40日後の8月27日の暗夜に多数の念仏者が暴徒となって松葉ヶ谷の草庵を焼打ちにした。聖人は危うく難を逃れ、奥山に避難された。この時、伝説によれば、白猿が現われてお手を引き逃れられた。この場を「お猿畠」と呼んでいる。
聖人はさらに下総の富木胤継のもとに身をひそめられ、ここを中心として約一年の間遊化せられた。
翌年再び鎌倉に入り、松葉ヶ谷に戻られて庵室を構え倍旧の活躍をされ、伊豆流罪を迎えられるのである。

9月 ●龍口法難会(りゅうこうほうなんえ)【9月12日】
文永8年9月12日に起った聖人の生涯中もっとも劇的な法難を記念する日。
文永8年、聖人は諸宗の徒が執権の後室等に訴えた為に9月10日評定所の召喚に応じ、平左エ門頼綱に対して国難予告の適中を説き、諸宗との対決を求め、且つ、国難の起るべきことを述べられた。しかし、幕府の聴く所とならず、12日松葉谷の草庵に於て捕えられ、佐渡流罪の名目のもと、中途の龍口刑場において頸切られんとしたのである。刑場への途次、鶴岡八幡宮において「いかに八幡大菩薩はまことの神か」と叱咤された。八幡社頭の諫言である。
刑場において子丑の刻、いざ頸切られんとしたとき、突如起った天変により聖人は虎口を脱れられ、武蔵守宣時の家人、佐渡守護代、本間六郎左エ門重連の依智の館に幽せられたのである。聖人ご自身で「自分は龍口で一度死んだ」といわれるように、聖人の法難中でも最も代表的な法難であり、営々と築き上げられつつあった教団に対する弾圧も大規模且、徹底的であった。

10〜11月 ●佐渡法難会【10月10日】
龍口法難のあと、一ヶ月依智に滞在されたのち、10月10日に依智を出発して聖人は佐渡に向われ、10月28日に佐渡に着かれ、塚原三昧堂、後に一の谷近藤清久の邸に移られ、在島4年、幾多のご苦難のうちにも、法華経の信仰と、上行菩薩の自覚を深められると共に、人開顕の「開目鈔」や法開顕の「観心本尊鈔」の如き重要な御書を著わされ、文永10年7月8日には佐渡始顕 の本尊と呼ばれるようになった大曼荼羅御本尊を書き表わされた。
●お会式【10月13日】
聖人は弘安5年(1282年) のこの日朝8時ごろ、池上宗仲の邸で61歳の生涯をとじられた。このご命日に聖人への御報恩のための法要が「お会式」で、古くは「御影講」「御命講」と呼ばれていた。
ご入滅の霊地池上本門寺では、11日から13日にかけて盛大な法要が営まれ、とくにお逮夜の12日夜は、信徒の講が万灯を繰り出し、広い境内が参詣者で埋まる賑いになる。朝8時の法要では、「臨滅度時の鐘」が貫首の手によって鳴らされる。
各寺にとっても、お会式は年中行事の中でも、最も大切な日である。組寺で勤め合いをするので各寺の期日はまちまちであり、13日を中心に10月から11月にかけて営まれる。
●小松原法難会【11月11日】
文永元年(1264年)故郷安房にかえられた聖人は悲母を見舞い、その祈りにより、小康をえられたため、10月華房蓮華寺において師の道善房に面談され、11月11日天津の工藤吉隆の招きに応ずる途上、松原大路において、地頭東條景信の待伏せに遇い、眉間に三寸の傷を負われ左の手を折られ、弟子鏡忍房、工藤吉隆は殉教した。このご霊跡に鏡忍寺が建てられている。聖人の傷の手当をされ、寒さがしみないよう綿帽子をおかけしたことにちなんで寺では御会式から開宗会まで聖人の御像に綿帽子をお着せしているのである。
この法難によって聖人は「日本第一の法華経の行者日蓮」としての自覚を一層深められたのである。


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