素敵に生きる(中)
財あれば財を憂え 財なければ財になやむ
釈尊の説いた尊い真理の一つに、苦諦というものがあり、その中に「求不得苦」といって、欲しいものが手に入らない苦しみ、というものがあります。
人間の欲望は際限がない、といってもよいでしょう。たとえば、「あなたは、どのくらいの財産をためることができたら満足しますか」といった質問を受けた場合、ほとんど財産らしいものを持っていない人なら、「いざというとき―たとえば家族の一員が病気にかかったり、遠くに住んでる親類のだれかに不幸があったりしたとき―困らない程度の貯金があれば十分だよ」などと答えるかもしれませんが、相当な財産をすでに持っている人は、「現在持っている財産のせめて二倍ぐらいは持ってみたいね」などと答えるはずです。
ところが、前者にしても後者にしても、初めの願いが達成できた瞬間から、次の欲望が出てくるのです。そういった意味では、ある人もない人も、ともに財産については苦しむのですが、ここで述べられていることは、また、別の苦しみなのです。
財布の中にあまりお金が入っていないようなときには、一人で淋しい場所を歩いていても、一向に危険は感じないのですが、たとえばボーナスが出た日に、ふところにたんまりと現金を抱えているような場合は、だれかが自分を狙っているのではなかろうか、と考えるものですから、暗い場所を一人で歩くのが恐ろしくてしたがないのです。
よくいわれることですが、親が大きな遺産を遺して死んでいった場合、必ずといってよいほど、複数の子どもや他の遺産相続権のある者たちの間で争いが起こるのです。
なにも遺さなければ、争いをしようにも争いようがないのです。
「子どもになまじっかの財産など遺すと、兄弟姉妹の間で遺産を争って、心から親の死を嘆いてくれないが、なにも財産を残さないと、親が死んで悲しいし、財産なくてなお悲しい、といって心から泣いてくれるのではないだろうか」ということもあるかもしれません。
それでは、何も財産がなくてもよいのか、というと、生きていく以上はそうもいえないのです。財産とはいえないまでも、たとえば、子どもの教育や結婚費用に、さらには、自分自身の老後のために、ある程度の蓄財は必要なのです。原始時代とは違って、ほら穴に住み、獣の皮を体にまとい、そして、今日食べるものを自分の手で探しにゆくというわけではないのですから、やはり未来のことを考え、同じ社会に住む人びとと共同で生きてゆくためにも、財産が皆無、というわけにもゆかないでしょう。
それでは、人間の欲望の歯止めをどこでしたらよいのでしょうか。「起きて半畳 寝て一畳」ということわざがあって、一人の人間が生きてゆくためのスペースは、起きているときにはたたみ半畳分、寝ているときには一畳分あれば十分なのです。いくら財産があるからといって、「俺は三畳にわたって寝るぞ」などといえる人は、お相撲さんのように身体のよほど大きな人間を除くと、まずいないのではないでしょうか。このように考えてきますと、人間の欲望には限界がないことに早く気がついて、財産に執着を持たないようにすることこそが幸せの道である、と納得することが大切なのです。
たしかに、今日生きてゆくための衣食住がなければどうにもならないのではありますが、食べきれないほどの食料、使いきれないほどの衣料や財産を持ったまま死んでゆくのでは、死んでも死に切れないでしょうし、おまけに、子孫に争いの種を残すことになってしまうようになるのでは、まさに、「財あるからこそ憂うる」ことになってしまうのです。
少なくとも財産なくして悩むよりも、財あることによって憂えることのほうが、はるかに多いといえるのかもしれません。日蓮大聖人は、
蔵の宝より身の宝 身の宝より心の宝 第一なり 心の宝積みたもうべし |
日蓮大聖人
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と申されております。いくらお金があっても、身体が悪いとダメだし、逆に身体が悪くても、こころが豊かであればそれは、しあわせなのです。是非とも、こころの修行、こころの宝を積みたいものです。
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