素敵に生きる(上)

人生を素敵に生きるにはどうしたらよいのでしょうか。 「一期一会」(いちごいちえ)と言う言葉がございます。この言葉は、仏教用語でありますが、千利休がお茶をたてるときの心構えとして取り上げてから、むしろ仏教用語よりも、お茶の世界で有名になったことばです。実は、このことばの後に「残心余情」とつづきます。これは、心残りをしないように、情をかければよかったと後悔しないようにという意です。戦国時代に、戦場に行くと、もしかしたら、戦いに敗れて死んでしまうかもしれない、もう二度と逢えないかもしれないから、常に、自分の出来る限りのことをして、ありったけの心を込めて、美味しいお茶をさしだして上げましょう。一生のうちで一緒に過ごせるのは、今しかないかもしれないから、心残りをせず、情を余らさずその様な気持ちを込めて一瞬一瞬を、大事にお茶をたてなさいと説いた言葉です。このことは、お茶だけの事ではなくすべてのことに通じる事です。

七日と言うと来月も七日という日は来ます。それでは、七月七日はと言うと、これもまた、来年必ず来ます。しかし、平成十六年七月七日と言うと、「おぎゃ」と生まれて死ぬまででたった一回しかない一日です。その一日を楽しく暮らすか、苦しく暮らすか、笑ってくらすか、泣いて暮らすか、人とけんかをして暮らすか、怒って暮らすか、家族みんなで仲良く暮らすかが、その人の人生を形成しているのです。
「一年の計は元旦にあり」と言いますが、「人生の計は、一日にあり」です。人は、生まれたら、老いて病気になって、必ず死を迎えます。このことは自明なことです。
一年は、三百六十五日の集まり、一日は、二十四時間の集まり、あと十年生きる人は、日に直すと三千六百五十日。時間に直すと八万七千六百時間。一秒一秒減っていくのです。
日蓮大聖人のお言葉に、

人の寿命は無常なり。出づる息は入る息を待つ事なし。風の前の露、尚譬えににあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも定めなき習いなり。さればまず臨終のことを習うて後に他事を習うべし。

と述べられ、人の命は、無常ですよ、亡くなるときは、呼吸がいつの間にかとまりますよ、葉の上の露が風で落ちるがごとく命がなくなりますよ頭の良い人、お年寄り、若い人どんな人であろうと死をまぬがれません。自分の死に様を考え想う時、如何にして生きていくべきか、日々をどのように暮らしていくのか、死ぬことがわかれば、おのずと人生を真剣に生きぬく方法が、見つかります。

たまには、暇な時を見つけて遺言をかくのも、一つの手です。今、何が一番大事か、本当に誰が自分の事を想ってくれるのか、今何をすべきかが、鮮明にわかります。
だからこそ、怒って暮らすより笑ってくらしたいし、けんかするより仲良く暮らしたいし、つまらないことで悩むより前向きに人生を生きるのです。

「朝は、希望に起き!昼は努力に生き!夜は、感謝に眠る!」

老いや死を待つのでなく素敵に一瞬一瞬を大事に生きるのです。そこに、仏の慈悲のご加護が現れるのです。

宮崎日日新聞 2004年7月7日掲載



素敵に生きる(中)

財あれば財を憂え 財なければ財になやむ
釈尊の説いた尊い真理の一つに、苦諦というものがあり、その中に「求不得苦」といって、欲しいものが手に入らない苦しみ、というものがあります。

人間の欲望は際限がない、といってもよいでしょう。たとえば、「あなたは、どのくらいの財産をためることができたら満足しますか」といった質問を受けた場合、ほとんど財産らしいものを持っていない人なら、「いざというとき―たとえば家族の一員が病気にかかったり、遠くに住んでる親類のだれかに不幸があったりしたとき―困らない程度の貯金があれば十分だよ」などと答えるかもしれませんが、相当な財産をすでに持っている人は、「現在持っている財産のせめて二倍ぐらいは持ってみたいね」などと答えるはずです。

ところが、前者にしても後者にしても、初めの願いが達成できた瞬間から、次の欲望が出てくるのです。そういった意味では、ある人もない人も、ともに財産については苦しむのですが、ここで述べられていることは、また、別の苦しみなのです。
財布の中にあまりお金が入っていないようなときには、一人で淋しい場所を歩いていても、一向に危険は感じないのですが、たとえばボーナスが出た日に、ふところにたんまりと現金を抱えているような場合は、だれかが自分を狙っているのではなかろうか、と考えるものですから、暗い場所を一人で歩くのが恐ろしくてしたがないのです。

よくいわれることですが、親が大きな遺産を遺して死んでいった場合、必ずといってよいほど、複数の子どもや他の遺産相続権のある者たちの間で争いが起こるのです。
なにも遺さなければ、争いをしようにも争いようがないのです。
「子どもになまじっかの財産など遺すと、兄弟姉妹の間で遺産を争って、心から親の死を嘆いてくれないが、なにも財産を残さないと、親が死んで悲しいし、財産なくてなお悲しい、といって心から泣いてくれるのではないだろうか」ということもあるかもしれません。

それでは、何も財産がなくてもよいのか、というと、生きていく以上はそうもいえないのです。財産とはいえないまでも、たとえば、子どもの教育や結婚費用に、さらには、自分自身の老後のために、ある程度の蓄財は必要なのです。原始時代とは違って、ほら穴に住み、獣の皮を体にまとい、そして、今日食べるものを自分の手で探しにゆくというわけではないのですから、やはり未来のことを考え、同じ社会に住む人びとと共同で生きてゆくためにも、財産が皆無、というわけにもゆかないでしょう。

それでは、人間の欲望の歯止めをどこでしたらよいのでしょうか。「起きて半畳 寝て一畳」ということわざがあって、一人の人間が生きてゆくためのスペースは、起きているときにはたたみ半畳分、寝ているときには一畳分あれば十分なのです。いくら財産があるからといって、「俺は三畳にわたって寝るぞ」などといえる人は、お相撲さんのように身体のよほど大きな人間を除くと、まずいないのではないでしょうか。このように考えてきますと、人間の欲望には限界がないことに早く気がついて、財産に執着を持たないようにすることこそが幸せの道である、と納得することが大切なのです。

たしかに、今日生きてゆくための衣食住がなければどうにもならないのではありますが、食べきれないほどの食料、使いきれないほどの衣料や財産を持ったまま死んでゆくのでは、死んでも死に切れないでしょうし、おまけに、子孫に争いの種を残すことになってしまうようになるのでは、まさに、「財あるからこそ憂うる」ことになってしまうのです。

少なくとも財産なくして悩むよりも、財あることによって憂えることのほうが、はるかに多いといえるのかもしれません。日蓮大聖人は、

蔵の宝より身の宝 身の宝より心の宝 第一なり 心の宝積みたもうべし
日蓮大聖人

と申されております。いくらお金があっても、身体が悪いとダメだし、逆に身体が悪くても、こころが豊かであればそれは、しあわせなのです。是非とも、こころの修行、こころの宝を積みたいものです。

宮崎日日新聞 2004年8月4日掲載



素敵に生きる(下)

「ばかやろー弱音を吐くな!生き死には、病院の先生が、決めるんじゃない。生きて生きて生きぬけ。文句をたれる前に頭をたらし、汗水たらし、涙をたらし、血へどをたらせ。忍辱の衣を着て、慈悲ののこころを持って精進せえ、その場、その場が、修行だ気合いを入れろ、はな垂れ小僧!」 これは、私自身が約二十年前に、癌の三度目の転移を知らされ余命一ヶ月と言われたときの自分に宛てた日記の一部である。

抗癌剤で髪の毛は、抜け落ち、やせ衰え、自分で、歩くことも出来なかった時、汚い字で、ノートに大きくなぐり書きした言葉である。普通の人は、老いることにより、死を間近に感じるが、病人は、年齢に関係なく死を隣に感じるのである。二十代で癌におかされ、三年以上入院退院を繰り返し、病院の天井の模様の穴を数えるのが、日課だった。その時自分の不幸を呪っていた。なぜ自分がこんな病気になるなんて、師父に、「これも、仏様に与えられた試練だから、感謝をしてがんばりなさい。」といわれ、その時は、苦しみから逃れたく何を聞いても、何を馬鹿なことを、言うんだ俺の苦しみは分からない 感謝をするなんてと思っていた。

しかし、回りを見渡すと自分より、小さい子供たちも、がんばっている。もちろん、いろんな人たちが、一生懸命に生きている。その事を、間近に見て坊さんである自分が、情けなかった。しかし、抗癌剤の苦しみは、生半可ではない、ついつい、友人に、抗癌剤が、苦しくて死んだ方がましだと愚痴をこぼしたら、「甘えるな苦しくて、自殺したら死んでも、あの世まで追いかけてぶん殴ってやる。 自分だけの事を考えるな家族はおまえ以上に苦しいんだ死んだら、生きている人間はずっと悲しみが続くんだぞ」 と怒鳴られ友人と思いっきり泣いたのを今でも、憶えている 。

良く人事を尽くして天命を待つと言うが、私は、天命の中で、人事を尽くすと考える。魚が、水の中で住み水の有り難さを知らないように、私たちも、仏の世界に住んでいながらその事に気づこうともしない。お経に心を柔軟に正直に一心に仏を見立てまつらんものは、この世界は、安穏で、仏様が、充満している。と説かれてある。死を間近に感じ生きるということは、並大抵のことではない。今現在、一つの病院をとっても、どれだけの人が、年齢に関係なく病気と戦っているか。逆に、元気な人が、無気力に生きているか。 私のお寺には、多くの人が、人生に悩み苦しみ、相談にこられるが、少し考え方や、見方を変えることで人生が百八十度変わる。この事にやっと気づくのである。しかし、なかなか、目先のことにまどわされ生きながらに、地獄を見て悩み苦しむのである。わたしは、今まで元気で来れたこと、いろんな人に励まされ助けられている事を有り難く身に感じ感謝する毎日である。

今、生きることに疲れ果てている人、老いることを恐れている人、病に苦しんでいる人、死を怖がっている人、人生には、必ず活路が、あります焦ったらだめ、人生悪いときもあれば良いときもある。必ず良いときがあると信じ、たとえ少しの光でも、希望があるなら光のある限りがんばりましょう。人生において生きる力のなくなったときは、「今日から毎日あらゆる点で、いっそう良くなる。ますます良くなる。ぐんぐん良くなる。きっと良くなる。かならず良くなる。ぜったい良くなる。良くなるしかない。南無妙法蓮華経」と心に刻み 素敵な人生を送りましょう。

宮崎日日新聞 2004年9月1日掲載